第1話:電球男。AIは魔法のツールではなかった
- 悌久 阿部
- 2月14日
- 読了時間: 3分

つい1ヶ月ほど前までは、AIというものに対して、私はある種の幻想を抱いていた。
「AIを使えば、簡単に創作ができる」
「考えなくても、理想のキャラクターが生まれる」
といった、とんでもない「便利なモノ」という漠然とした期待感を抱いていたのだ。
きっかけは会社のウェブサイトを構築している最中に「自分の写真」ではなく、代わりにAIに画像を生成させたらどんなものになるのか?という事だった。
14年ブランディングという仕事に携わってきているので、クライアントには「代表の写真を載せる事で信頼感が増しますよ」と幾度となく繰り返しプレゼンしてきた私からすると、自分はやらんのかい!と自分にツッコミを入れたのは御愛嬌。
しかし、今回のウェブサイト制作の過程で自分の写真よりも、自分の説明をする第三者的な立ち位置の存在をなんとなく欲していたからというのが理由だった。
今回のサイトを創りながら、自分のモチーフを探し続けていた。
その中で、自分の役割である「言語化」と「アイディアマン」と度々言ってもらえる企画力は自分にとって非常に大きな武器だと思っていたので、その強みを具現化したかった。
その際に行き着いたのはありきたりではあるが「電球」の表現だった。
電球は今やLEDに押されてしまっていて、数は減ったしまったが、灯りを灯すという意味ではとても便利な道具であり「ひらめき」を比喩表現する時に使うとてもポピュラーなモノである。
ある日お風呂に入っている時に「電球頭の人間がスーツを着ている肖像画があったら面白いな!」と思いつき、早速AIに入力してみた。
その結果がこの画像。

これはこれで面白い表現だったと今も思う。
さらに、もっと油絵のような表現はどうだろうと思い、この次

うん。
ある意味想像通りのものが出来たので、満足したのも事実。
この時点ではまだ「filament man」という名称もなく、ただ漠然と思いついたワードで生成してみたという感じだった。
このあたりから「自分の分身を創りたい」という想いが強くなる。
普段、スーツを着ていないので、どちらもイメージではないな、という結論に至り、上下デニムの電球男ではどうだろうと考えた。

なぜか、肖像画スタイルは継承され、リアル感が逆に怖い、80年代のホラー映画のようなものが出来上がった。ウエスト・サイド・ストーリーの世界観でザ・フライのような実験した感じ。(ウエスト・サイド・ストーリーは60年代だったかな)
面白いけど、違うのは違うなと。
で、もっとコミカルでイラストっぽいタッチはないかなと思った結果がこれ

おお!!なんか、いい感じ。
まだこの時点では「頭でイメージした簡単なイメージ」をAIに入力しているだけだった。
それでも「それなり」のイメージが生成できたからもう少しでイメージ通りのものが出来るかな?
そこから、約1日まったくイメージ通りの画像が生成される事がなくなっていく。
なぜ、AIはトンチンカンな画像を生成するのだろうか?めっちゃ頭の良い機械なのでは?
とイラ立ちもしていた。
AIが魔法のツールではない事がわかり、一旦落ち着いて思考を変えてみようと試みる。
[次回:filament man誕生!AIとの対話が映し出す“自分”]に続く


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